記憶の欠片 -三浦しをん『小暮荘物語』読んだよ-【41日目
読みかけの本はいくつもある。
誰かにいつか貸したり、誰かから借りたりすることもあるのだけれど
この本は大好きな珈琲屋さんで貸してもらったものだった。
タイトルも作家さんもいろんなところで目にしてはいたけれど
特に気に留めることはなかったので
ひょんなことで薦めてもらったそれを昨夜はやっとこさ読み終えました。
(貸していただいてからはだいぶ経っています。。。ごめんね)
昔わたしはほんのすこしの間、「喜多見」というところに住んでいた。
沖縄に戻ってくる前は「豪徳寺」。
初めて上京したときは、もっと離れて「中央林間」。
どれも小田急線沿いの駅にあって、わたしはそこをどれもなかなかに気に入っていた。
東京に住んでいてちょっと嬉しかったのは、小説に出てくる街を「あ、知ってる」と思えるのが増えたところ。
小学生の頃なんて、教科書に載っていた「子供のいる駅」で先生から
「みんなは駅がどんなものかわかんないと思うけれど、ホームっていうところがあって…」などと説明を受けても
「???」という感じだったのに
(沖縄には電車が走ってないし、ゆいレールもなかった)
住んでからは「おお!ここ小説で読んだことがる場所だ!」と思えるところがどんどん出てきてひとりニマニマしたものだった。
読み終えた三浦しをんの『小暮荘物語』も、小田急線の世田谷代田にあるボロアパートが舞台だ。
そこがまあその「喜多見」に住んでいたときの、ボロアパートにすごく似ていて
初めて読む作家さんなのにぐんぐん読み進められたし、その頃の記憶が小さく何度も掬い上げられてちょっぴりおセンチになってしまった。
初めての一人暮らしをして、ちゃんと「寂しい」って思えて
いろんな人を巻き込んで巻き込まれて、次の章ではわたしが出てくるんじゃないかと思いながら頁を捲っていった。
勿論わたしは出てはこなかったけれど、(ちょっぴり残念)出てくるどの住民もすごく人間臭くて愛らしくて、カメラマンの並木や、彼の昔の恋人の繭、繭の働く花屋の常連の虹子らには特に感情移入して読み進められた。
(もう本当単純ですのうわたし)
特に「嘘の味」のP247は共感しすぎたので、もしも本屋さんとかで手に取る機会があったら読んでみてくださいましまし。
(あとですこしだけ引用しようかな)
人が死ぬのは「忘れられたとき」だとどこかで読んで
それ以来、自分の記憶から溢れたものは不要なものだなんて言い聞かせてきたこともあったけれど
思い起こさせてもらった記憶の欠片たちはどれもみんな、今のわたしを作ってくれていて
どれもみんな、滑稽なほどに愛おしかった。
さて、今日はお休みです。
もう少し本を読んで、断捨離すすめようかな。
今日も読んでくださってありがとう。
わたしも誰かにとって こんな風な記憶の欠片でいられたら嬉しい。
どうでもいい追伸;30日スクワット5日目 70回だんっ
それではきっと またあした!